太平洋 戦争 敗因。 「何故攻撃に出ぬか…」太平洋戦争下の昭和天皇「お言葉」の数々(辻田 真佐憲)

これをアメリカとイギリスとオランダと中国の頭文字をとって ABCD包囲網と言ったりします しかし、その当時でさえ、いわゆる民主化されたはずの戦後の日本の各新聞は、やはり天皇制を論評することを、戦前同様に『畏 (おそ)れ多い』ものとして極力、これを敬遠したため、かえってGHQから、 『天皇制についてもっと自由に論議、報道して世論を起こすべし』と、新しい戦後の『主権在民』のあり方について、指示と指導を受けたものであった
またもう一つ重大な点は、戦後はじめて東京裁判、その他で公表された、極秘の記録や貴重な手記 (元内大臣木戸幸一供述書および『木戸日記』、元首相近衛文麿著『平和への努力』、元侍従武官長本庄繁陸軍大将の覚書、元国務相、情報局総裁下村海南博士著『終戦秘史』その他)によって、開戦前に天皇は平和を求めて大いに気をもんでいたが、その大元帥たる統帥大権を発動して、断固として太平洋戦争を押しとどめることができなかった真相を、はっきりと教科書に記入すべきである ということは、アッズとセイシェルを取ってしまえば、もう、ユーラシア大陸の南岸への重要なルートへの接近路がほとんど完全にふさがれてしまうわけですよね
農作物の価格が暴落する一方、工業製品の価格が高止まりしたからである この天皇の『人間宣言』は、いわば『平和憲法』と抱き合わせの形で、戦後の民主日本の再建に、二大支柱とされたものであるが、近年どういうわけか、一般の戦争記録書などにもまったく再録されず、意外なくらい、その原文に接したものが少ないようである
つまり日本側が望みさえすれば戦争を回避できたものなのかということ自体が大問題です 一つの作戦と次の作戦の間に間隔を保つことである
日本軍は第23師団が応戦したが、機械化されたソ連軍に対して肉弾攻撃の日本軍がワンサイドゲームで惨敗し、短期間で1万8000人が戦死した、とされている 『それは、是非やれといわれれば、はじめの半年か、一年間は、大いにあばれてご覧に入れる
腕前的にはそれほどでもない米軍パイロットからさえ「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄されるような下手糞しか日本軍にはいなかったのだ 戦後の東西ドイツでは、いずれも連合国の手による、ニュールンベルク裁判とはまったく別個に、両ドイツ政府が、戦時中のナチス犯罪に対する厳正な摘発、裁判を、長年にわたり根気よく続行し、さすがは権利と責任と法律観念の強い、ドイツの国民性の合理主義を発揮したものだと、私は戦史家として大いに感嘆させられたものだ
昭和16年12月8日、真珠湾攻撃によってはじまった 太平洋戦争は、昭和20年9月2日、東京湾頭、「ミズーリ」艦上の 降伏調印(写真)で幕をおろした これは、機動部隊が敵艦隊に一撃を加えた後に戦艦部隊で止めを刺すという、旧来の艦隊決戦思想に則った戦国序列を重んずるがゆえの配置であった
なぜなら、戦争というものは、古今東西を通じて、つねに残酷であり、きわめて非人道的な暗いものであるからだ 当然日本側はこのハル・ノートの条件を飲まず、予定通り12月1日の御前会議で対英米開戦を最終決定します
昭和十五年一月に米内内閣の首班となったが、汪精衛政権成立をめぐり、支那事変の処理について陸軍側と折り合い悪く、そのために彼のめざした親米英外交は行き詰まり、内外の難局に直面したまま政治力不足により、同年七月、あえなく総辞職した そこでこの場合陸軍に対して、海軍の力で蒋介石支援ルートをインド洋から絶つという方針をとるから、直接攻撃はもういいだろうと言って陸軍を説得する一方、インド作戦に備えて待機という名目で、中国本土から陸軍を引き上げてしまう
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そして、続いてもしも余裕があったならば、一応セイシェルまでを取っておくと 国史は各時代に於いて、常に推移変遷の諸相を呈するにも拘らず、それらを一貫して肇国の精神を顕現している
一方またこれは日本の国内問題として、陸軍に対しての国内政策の意味もあります 当時の大本営は、米軍が日本軍最大の前線拠点ラバウル(ニューブリテン島)攻略を目指すものと考えており、そこの防備を集中的に固めて硫黄島どころではない超大規模な地下要塞も完成させるなど難攻不落化していた
アメリカが参戦してくれないと、われわれはおしまいだと 沖縄本島は占領されてしまいました
然レドモ朕 (ちん)ハ爾等 (なんじ)国民卜共ニ在リ これは、奇怪千万なことではないか! なるほど、我々日本人にとって太平洋戦争は、途方もない無謀な『負け戦さ』であり、それは国家としても、国民としても、また、天皇一家としても、けっして内外に向けて自慢になることではない
日本人ではなく「アジア人」だから、ただの被害妄想でしょ? ノー! 当時、アジアからの移民の大半は日本人だった 山本五十六は大変合理的な頭脳の持ち主であったといわれているが、彼の下にいた12名の参謀な中に暗号や通信の参謀はいても情報の参謀はいなかった
実際問題、「戦争はしてはならなかった」という処方箋が、実は日本側の選択肢としては最初から存在していなかったとのだすれば、沖縄戦の「ひめゆりの塔」の悲劇、さらには東京大空襲や原爆の悲劇なども、それらを避けるための処方箋は実は結局はこれしかなかったということになってこざるを得ないのではないでしょうか 日本軍パイロットが開戦当時のような世界的にも第一級の熟練パイロット揃いだったらその構想は成功したかもしれないが、残念ながらその頃の日本軍は、多くの優秀なパイロットが鬼籍に入ったり負傷で前線を離れざるを得なくなったりで、未熟なパイロットばかりだったのだ
わかりやすく解説する講演、研修は好評を博しており、顧問先にはオリコン顧客満足度ランキングで1位を獲得した企業や、特定業界での国内シェアNo. それでも船のエンジニアとしての立場から、指摘しておきたいことがあるのです 際限のない消費で、巨大な需要を生み出し、景気をV字回復させる ・・・ つまり、戦争経済
たとえば三国志は吉川英治の翻訳による、と思い本気にしていると、冒頭の黄巾族の乱に出てくる「劉備玄徳が賊から若い姫君を救う」場面などは、完全な作り話である そのときはソ連も準備万端なので、壮絶な消耗戦になるだろう
日本国民として、私は陛下が裁判にかけられるのを見るにしのびません これは世界で初めて設計段階から空母をつくる目的で建造された、本格的空母でした
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とくに、『勝者の裁判』とよばれた東京裁判の市ヶ谷法廷で、見るからにやつれ果てて、みすぼらしい東条被告 (当時六十四歳)が、直立不動の姿勢で、米国の検事のするどい訊問、追及にたいして、 『私の経験した間には、天皇は、御前会議でも、ほとんどご発言なさったことはありません。

もちろん、スパイの任務は敵の動向を探る諜報活動にある。

最大の敗因は、海上シーレーンの重要さを認識していなかった事ですかね。

『軍国日本は、武力戦で敗れて無条件降伏をした。

蒋介石(ちょうかいせき)政権のみを認め、事実上日本が統制している汪兆銘(おうちょうめい)政権を否定すること• 1905年8月、アメリカの鉄道王E・H・ハリマンが来日し、南満州鉄道を日米で共同管理しようと申し出たのだ。

そして日本本土は米重爆撃機の航空圏内に入り、日々爆撃に晒されることになってしまった。

戦争の歴史もまた同様である。

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