清少納言 紫式部。 紫式部と清少納言の関係や性格の違いを簡単に紹介するよ【二人はライバルだったのか?】

「清少納言こそしたり顔にいみじう侍りける人」「真名(漢字)書きちらす」などと、けなしています。 従って、道長一族(御堂関白家)の賛美こそがこの日記の主目的であるわけです。 春はあけぼの(夜が明け始めるころ)が良いとし、山ぎわが少し明るくなって、紫色を帯びた雲が細くたなびいているのが良いとしています。 「この扇の絵は、だれがかいたの?」 と伊周はきくが、清少納言は、返事もうわのそらで、汗びっしょりになっていた。 やがて宮廷生活になれると、清少納言の負けずぎらいとすぐれた才気が、自然と発揮されるようになったわけだ。 人の齢。 紫式部は、女は慎ましいのが良く、才を表にだすなどというのは、はしたないこと、と考えていたようなんですね。 の二箇所です。
54 64
それは 『紫式部が一方的に清少納言をライバル視していた可能性はある』ということです ただ、両者はその後も交流していたようです
自分でも(和歌の才能がないことが)分かっていて、(中宮定子に)お願いして、そのような(和歌に関する)ことには関わらなかったのでしょうか むやみに風流ぶってみせても、そこに自然なところがなく、うわついているだけだ
出産は女性にとって命がけの大仕事で、「苦しみや危険は、もののけのしわざ」と考えられていたのだ ほんとにかわいらしくなっていたのにねえ」 と、おつきの女は、なきべそ顔の少女にいった
では、一方紫式部はどうでしょう 夫の棟世の任国である摂津に下り、その後亡き父元輔の山荘があった東山月輪の辺りに住んでいたようです
紫式部は今風に言えば 「負けず嫌いで真面目なキャリアウーマン 「あはれ」はしみじみとした感動を示す言葉で、ジワーっとしたイメージの言葉です
こう聞くと、ふたりは同時期に近くで働いていたように思えるかもしれません そして、いつもより御格子を下ろしていました
和泉式部に対して: 素行は良くないのですが、歌はすばらしい 清少納言はその後、摂津守を務めていた 藤原棟世と再婚し、小馬命婦という娘を生みました
清少納言が1001年に宮内から去り、1006〜1007年ごろに紫式部が宮仕えを開始しますから、対立のしようがないんです 清少納言の紫式部評 それでは清少納言は紫式部をどう思っていたのでしょうか?紫式部を直接評価した文章は見つかっていません
67